映画「PLAN75」を見て
生きる意味を考える

ここは、老人ホーム?と思うほど、
年齢層が高い鑑賞者に驚いたけど、

テーマが尊厳死ともなると、
若い人はまだ興味がなく、

それなりの年齢層が
集まってくるのは当然。

どう見ても自分より年齢が
高い人の中で、
私はなぜか優越感を感じていた。

まだ、皆より先があるから?
自分の死に際を考えるには
まだ早いから?

失礼だけどそう思った。
でも、言うほど若くはないし、
すぐに追いつく年齢だとは
分かっている。

だからこそ「PLAN75」という
映画に興味を持ったのだから。

「生きる」意味を考えることは、
日々忙しい中で、そうないことだけど、
「生きる」ことを意識していくと、
一日一日に意味があると分かるから、
とても大切なことだと感じた。

目次

PLAN75のあらすじ

75歳から生死を選択できる制度が
国会で可決された。

その背景には高齢化社会における
様々な問題によるストレスから
起きた殺人事件がある。

そういう世の中で、
国が「死」を進める制度を導く。

公園のベンチを使用禁止する。
ホームレスの人の寝床を取り上げて、
自然と「PLAN75」に向かわせる誘導。

推奨はしているけど本人が選択し、
いつでも中止はできる。

死ぬ前に好きなことをして過ごす為の
「お見舞い金10万円」が支給される。
だけどすでに使い道さえもない世代。

家も始末して身辺整理をして
のぞんだ決断を中止したとしても、
その先に未来はない。

未来が見えないからこそ
「PLAN75」というプランを
決断したのだから。

それでも、最後の最後は生きることを
選んだのかもしない。

そしてその先は、この映画内では
描かれてはいない。

それぞれが考えろということか。
どうすることが、解決なのか。

どうすれば高齢者の寂しさに
寄り添えるのかを思いながら
自分も高齢者になっていく。

高齢者の気持ちと生き方

高齢になると様々な条件から
外れるため、働ける場所は
そう多くない。

体力的にも限界になり、
慎ましい生活を送っていく。

同じ世代の仲間が亡くなったり、
子供や孫がいても遠くにいたりで、
高齢者は常に「寂しい気持ちでいる。

だから、仕事と分かった上でも、
「PLAN75」に携わる若い職員との
会話が唯一の楽しみとなっていた。

普通に人生を歩み、高齢者となり、
それでも生きていかなければならない。

病気の痛みではなくても、心は痛んでいる。
「PLAN75]は高齢者の救いの手なのか?

「PLAN75」を推奨する側の気持ち

「PLAN75]を進めることは仕事。
だけど高齢者に「死」を推奨する内容に、
違和感を持ち始める若い職員。

また淡々と他人には推奨できても、
身内にはできないという葛藤。

このプランが正しいのかどうかは
すでに答えは出ている気がした。

社会の対応策とは

高齢化と少子化は進む一方で
もう止められない。

高齢者含め弱者はますます生きにくい
世の中となる。

映画では「死の選択」を
促す社会ではなく、
手を差し伸べる社会であって
欲しいというメッセージが
込められている。

現実社会では、
「手を差し伸べる」が具体的には
何に当たるのだろう。

介護保険法
老人福祉法
高齢者雇用安定法

もうすでにこれらの政策で
追いつかないくらいの高齢化社会に
なっている。

「PLAN75」を見て思い出したのが、

姥捨て山」(うばすてやま)
口減らしのために高齢となった
親を山に捨てる昔話。

年寄りは捨てよという殿様の考えを、
年寄りゆえの経験が国の役に立った
事から考えを改め年寄りを大事にした
という「難題型」。

捨てられる道中でさえ、息子の
帰り道を案じて木々に印を
つけていった親を
捨てられなかった「枝折り型」。

中でもぞっとする説は、
息子が親を山に捨てる際に使った
「荷押し車」をさらにその子供が
「お父さんの時にも使うから持って帰ろう」
と言ったことに対して
自分の行動の非道さを実感する話。

自分の行動は自分に降りかからないと
想像できないということ。

社会保障を支えることができない
近い未来に、非道な行為を推奨する
世の中であってはならない。

「死」の決定権は
自分にはないのか?

好きな時に自由に「死」を選ぶことは、
道徳的に許されていない。

だけど、重い病気で「生きる」ことが
困難な時、本人の意思は尊重される
べきだと思う。

病気の進行によっては、
意志さえ伝えることができない
場合だってあるのだから。

スイスやオランダでは認められている
「尊厳死」や「安楽死」について
考える時、「痛み」という
苦しみからの救いという点だけで
考えられたら良いなと思う。

倫理とか宗教とか尊厳とか
色々難関はあるけど、
その1点だけを考えて認められると、
救われる人は多いのに。

痛みを我慢しなくて良い
状態だけが救いであることは、
痛みを知らないと分からない。

高齢者の願いとして、
社会における自分の価値。

ドナー登録のように、死んでから
人の役に立つ方法がある。

オランダとベルギーでは、
安楽死後の臓器提供が可能である。

自分の意志がはっきり伝えられる時に、
自分の最後を選択したい。

まとめ

この映画を見終わっての感想は
「どんより」とした感覚だった。

答えが分からない、
何が正解かわからない感じ。
心が重たくて、つらかった。

末期がんで痛みに苦しみながら
亡くなった叔母を見ている。

叔父だって、痛い、痛いと
言いながらがんで亡くなった。

3人に1人はガンになる時代で、
周囲に痛みに苦しみながら
亡くなる人の様を見ると、つくづく、
苦しみながら死ぬのは避けたいと
思ってしまう。

私は「尊厳死」に賛成だった。
父も尊厳死が認められている
スイスに行きたいなど、冗談で
話したりするから、考え方は同じ。

自分の最後を選択できるって
もしかしたら画期的なことだと
信じていた。

だけど、「PLAN75」を見て
最後を決めるのは自分で
あってはいけないという
気持ちにもなった。

正しいとか正しくないとかでは
図れない事柄だけに、その領域に
触れるのは「神様」だけなのかもしない。

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この記事を書いた人

扶養サレ妻の歩く日常を綴ります

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