「ルポ虐待」を読んで思う
子供が育つ条件

「大坂二児置き去り死事件」を起こした母親「芽依」の人生をたどりながら幼児虐待のメカニズムを分析するこの本は、悲劇すぎて心に重くのしかかる。この事件を映像化した「子宮にしずめる」という映画はリアル過ぎて、見るのも辛い。

そして、自分には全く関係がない事件だけど、この事件の根底には、誰もが遭遇するかもしれない身近な要因があり、無視することはできない。少しの不具合が、より悪い環境を生み出し悲しい事件に繋がるとしたら、この事件を避ける方法はあったかもしれない。だけど、この悲しい事件の助走は母親「芽依」の幼少期からすでに始まっていた。

目次

母親「芽依」の人格と環境

虐待は繰り替えすというが、実際「芽依」の家庭環境には問題があった。

父親は教育に力を入れる普通の人に思えるが、家庭外にも打ち込む事があり、熱心すぎて家庭を顧みることがなかったのかもしれない。そしてその父親と不倫の先に離婚した母親は、「芽依」をネグレクトしている。

「芽依」に疑われる「解離性障害」は嫌な現実から逃げだそうとするものだったのだろう。

母親よりはまだ父親のほうがマシだったのかもしれないが、父親も二度の離婚や、次々と女性を変える生活を思春期の「芽依」がどう感じていたのか想像できる。

「早くママになりたい」
という理由で20歳で妊娠。

心理カウンセラーは、恵まれなかった自分の幼少期を自分の子供に重ね、やり直そうとしていると判断する。

結婚当時は丁寧な育児をしていたはずだったが、長くは続かない。

幸せな時間を過ごしているはずなのに、
理由のない浮気を重ね離婚に至る。

芽依の幸せは続かない。
逆に自ら「幸せ」を手放す傾向があるのは、
複雑な育ちのせいかもしれない。

「芽依」の周囲にいた人の気持ち

一見立派な教育者である父親

プライドが高く、敗者を許せない父親。
実母にネグレクトされた「芽依」を救ったのは父親だったことは否定できない。

父親は決して育児を投げ出したりはしない。
シングルの子育ての大変さは父親が身をもって経験している。

後に再婚した新しい継母からは愛情はもらえず、孤独なまま成長して、中学からは非行に走る。

父親なりの子育て論で「芽依」を見捨ててはいなかった思う。だけど、その思いは「芽依」には届いていない。

事件を起こす前も、心配はしていた。
だけど夜の仕事をする「芽依」に激怒し、救いの手は出していない。


頼れない不安定な母親

実母は、「芽依」を置いて男と逃げた。
自分がされたことと、それを自分の子供にも同じように繰り返す事は無関係でない。
実母は新しい家庭でできた子供も放置している。
そんな母親に安心を求めることはできなかったはずだ。
裁判でもそう答えている。
「芽依」を支援する人はいない。

離婚した元夫

離婚の要因は理由のない浮気である。
優しい夫にと実母より頼りになる義母、愛する子ども達に囲まれて幸せな家庭を作っていた。

その家庭を自らの不倫で壊す理由がかわからない。実は「芽依」にも分からないのかもしれない。そんな母親を許せるわけもなく、結局離婚する。

怒りは当然で、元夫の支援は期待する方がおかしいと思う。元夫は被害者でもある。
自分の子供を悲惨な形で亡くすのだから。

大坂の友人の証言

離婚後の生活の中で、子供の存在を隠しながら風俗で働いたり、男と遊んだりする「芽依」。
その中で唯一子供の存在を知る友人がいた。

そして、離婚する前は良い母親だった「芽依」は、もう子供たちに食事を作ることもなく、コンビニ弁当を毎日与えており、ゴミでいっぱいの部屋で生活する。

風俗で得たお金も子供たちには使わず、自分自身にしか使わない。

すでに最悪な予感は始まっていた。

地元の友達

すぐに男がつくし、外見はかわいかったのだろう。また元気で場が盛り上がるからと人気があった学生時代の「芽依」。

しかし一方では、自分を大きく見せる「嘘」をよくついていたという。それもすぐにばれるウソ。

事件の前に遊んでていた地元の友人は子供の存在を知る。子供を放置していることを隠して、「預けている」と大人になっても嘘をつき続けた。

「芽依」のSOSは届かない

人を頼ってはいけないと思っていた「芽依」でも、大坂の友人に「子供たちを施設に預けたほうがいいか?」と尋ねたり、自ら高校時代の先生に電話をかけ、悩みを相談している。

さらに、児童相談所にも電話はしている。
だけどその先は続かない。

解決の提案をされても、信頼することは出来なかったようだ。そしてまた楽な方へ流れていく。
周囲の手をうまくつかめない。

「芽依」の過酷な人生が
そうさせるのかもしれない。

母親でいることを望み続けた結果

結婚当初は子供を可愛がったし、育児もしていた。だけどシングルで子供二人を育てるには夜の仕事しかないと「芽依」は思い込む。

子供のための仕事だったのに、いつしかホストにはまり、男を作り、家に帰らない日常を繰り返しながら最後に決定的な悲劇が待ち受ける。

「芽依」は裁判中も自分が放置し、亡くした子供を愛しているという。

「愛している」と「放置」は真逆であるはずなに、芽依の中では違うのだろうか。

ネグレクトの経験がネグレクトを生んだ。
虐待の連鎖はやはりあるのだろう。

それだけ親から受けた痛い記憶はその子の人生に大きくのしかかる。

一番身近な人を信頼できずに育つと、大人になっても信頼したり、頼ったりすることが難しいのかもしれない。

「自分でなくても」という人まかせの言動

母親に放置され、泣き叫ぶ子供たちの声を耳にした人もいたし、通報した人もいたらしい。

確信がなければできない通報。できたら面倒なことに関わりたくないという正直な気持ち。

目の前で事故が起きた時、
通報するのは自分ななのか?
車から降りて救助するのは自分なのか?

事故現場に居合わせても、
すぐさま判断ができないものだ。

他の誰かがするだろう。
自分が救助に入っても邪魔ではないか?

衝撃的な場面に遭遇すると、驚きもあり複雑な気持ちが入り乱れ判断が遅れる。

踏み入っていいものか判断が難しいデリケートな事例だけに、迷った挙句何も出来なかったことを簡単に攻めることはできない。

通報されてから、児童相談所も動きはしている。ただ様々な出来事が不運に重なり子供たちを救うことは出来なかった。

感情にまかせた痛い記憶

絶対に虐待をした記憶はない。だけど長女の記憶の中には冗談半分でいつも言うことがある。

小学生時代、勉強を教えても理解しないことにイライラした私が長女の手にペンをグリグリしたというのだ。

「そんなの虐待じゃないよ」
「ふざけただけだよ」と反論するが、
実は私も記憶にある。

そう、確かに感情が入っていた。
実は自分でも「しまった」と思っている。

感情のままに体罰をしたら、虐待なのだろう。
本人がそう受け止めたのだから、虐待。

子育て中にイライラすることなんて、日々あるし、感情が入ることだって多々ある。

大人からしたら、そのくらいの事柄も、子どもにとっては消えない記憶となることに驚いた。

親に捨てられた子供の痛みは想像を超える。
親は子供から逃げてはいけない。だけど、この悲しすぎる事件になるくらいなら、母親をやめて福祉に助けを求めるべきだった。

困難への対処法が楽な方へ逃げ出すことだった「芽依」ならその選択をして欲しかった。

まとめ

自分の思いを「ことば」にすることは案外難しいのかもしれない。

声を大にして「自分は困っている」と言える社会ではない。

社会も、全く何もしてないわけではなく、児童相談所だってきちんと仕事をしているはずだ。

ただ「芽依」のように、押し黙られたら気付けない。救いを求められないと助けることができないのだ。

デリケートな問題の中で、どこまで踏み込んで良いものか?気にはしても他に手を焼く案件はいくらでもあり、規則通りに仕事をするしかない。

周囲のもう少しの配慮、児相のひっ迫した実態、行政の繋がりが気薄だったために、救えなかった命。

母親「芽依」に下された懲役30年の刑でも子供たちは救われない。

今でも子供たちを愛していると言い切る「芽依」の心情は誰も理解できない。

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この記事を書いた人

扶養サレ妻の歩く日常を綴ります

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